2017に量子コンピュータ D-Wave 2000Q が報道された。
これに刺激され、量子力学関係の本を再読したり、量子コンピュータの本をいくつか読んだ。
量子力学のはじまり
炉の温度を確認するために炎を見つめると眼がやられる。鍛治の神は職業病として片目が不自由。産業革命以降、炉の温度を求める数式の研究が進められ、ようやく実験結果と一致する数式が完成した。
数式はできたが、これは「光の波のエネルギーはある決まった”とびとびの値”しかとらない」ことを意味していた。
こうして量子力学が始まった。
エネルギーを失い、原子核の中へと落ちてしまわないのはなぜなのだろう。
そんなことが起きるとすれば、安定した原子の存在があり得なくなるだけではない。
この小さな原子崩壊の際に放出される電磁波の周波数は連続スペクトルを形成するはずだ。
だがそれでは、原子が特定の飛び飛びの周波数(ガスのスペクトルの中で輝線または暗線として見られる)でしか電磁波を放出・吸収できないという観測結果に反することになる。何がこの特別な周波数を決定しているのだろう。
この疑問に対する答えは、 20世紀最初の30年間に、量子力学(ニュートン以来、物理学を最もラジカルに変えた理論)の発達とともに明らかになっていった。その名が示すとおり、量子力学はさまざまな物理系のエネルギーの量子化つまり、飛び飛びの値にすることを必要とする。
1913年、二ールス・ボーア(訳注:1922年、原子構造とその放射についての研究でノーベル物理学賞)は、「原子は特定のエネルギー状態でしか存在できない」として、単純な原子についてそのエネルギーを計算するための数式を発表した。
それ以前のマックス・ブランク(1918年、エネルギー量子の発見なとでノーベル物理学賞)の研究に続いて、アインシュタインがすでに1905年に、「光のエネルギーは光量子のちに光子と呼ばれるようになったの中にある。光子は光の周波数に比例するエネルギーを持つ」
と指摘していた。
ボーアが説明したとおり、原子が光子1個を放出することによってエネルギを失うとき、その光子のエネルギーは最初の原子状態のエネルギーと最後の原子状態のエネルギーの差に等しくなければならない。この条件が光子の周波数を決定している。
光子を放出することができず、よって安定している原子の最低エネルギー状態というものが必ず存在する。こうした初期の成果に続いて、1920年代に、どんな物理系にも適用することのできる量子力学の一般法が確立された。これはおもにルイ・ド・プロイ、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴォルフガング・パウリ、バスケアル・ヨルダン、エルヴィン・シュレーディンガー、ポール・ディラック、マッグポレンの功績である。
可能な原子状態のエネルギーは、シュレーディンガー方程式(音波の研究からすでによく知られていた、一般数学タイプの方程式)を解くことによって計算される。楽器のは 半波整数倍が弦の長さに一致する音しか出すことができない。それと同様に、シュレーディンガーは、可能な菓子のエネルギー準位はシュレーディンガー方程式によって支配される波が原子の周囲で切れ目なくちょうど収まる準位だということを発見した。
しかし、最初にボルンが気づいたように、これらの波は圧力の波や電磁場の波ではなく、
「粒子が見つかる確率は、波動関数が最大になる場所の近くで最も高い」という確率の波である。
量子力学は、原子の安定性という問題やスペクトル線の問題を解決しただけではなかった。
量子力学によって、化学は物理学の枠組みの中に組み込まれた。
電子と原子核の間に電気力が存在することはすでに分かっていたので、
シュレーディンガー方程式は原子だけでなく分子にも適用することができ、
それによってさまざまな状態の分子のエネルギーを計算できるようになった。
こうして、どんな分子が安定的かとか、どんな化学反応がエネルギー的に可能かとかが原則的に判断できるようになった。
1929年、ディラックは、「物理学の大部分と化学全体の数学的理論に必要な基本的物理法則は、これで完に明らかになった」と高らかに宣言した。
これは、「化学者は、化学の問題を物理学者に引き渡して引退するだろう」という意味ではなかった。ディラックもよく理解していたように、シュレーディンガー方程式は複雑すぎて最小の分子について以外は解けなかったから、化学独自のツールや知識はやはり不可欠だった。